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言語の自由を見出したシリアのクルド人

At a Kurdish class in Derik in northeast Syria. Credit: Karlos Zurutuza/IPS.

【デリク(北シリア)IPS=カルロス・ズルトゥザ】

 

「私は自分の言語で読み書きを習いたいんです。」と、シリアのクルド人マナル(21歳)は語った。今日、マナルと30名のクラスメートにとって、生まれて初めてその望みが実現しようとしている。

マナルには教育の機会がなかったわけではない。ダマスカスの北東600キロのところにあるハサカの大学で来年には経済学の学位を取りたい、とマナルはほぼ完ぺきな英語で語った。しかし、ほんの2ヶ月前まで、彼女は母語であるクルド語で書く機会は皆無だった。50年近くに亘ってバース党が権勢をふるってきたシリアでは、クルド語が禁止されてきたからである。

この夏、マナルは、ダマスカスの北東700キロのところにあるデリクの「バダルハン・アカデミー」でクルド語の授業に出席した。ここはこの町にある最近クルド語の授業を取り入れた2校のうちの一つで、週に3回各1時間の授業を無償で受けることができる。授業料は個人の寄付によって賄われている。

 
「私は英語が話せるので、クルド語でも使用されているラテンアルファベットに既に慣れ親しんでいました。」と、教室に入る直前に取材に応じたマナルは語った。

放課後に取材に応じてくれたアカデミーのモハメッド・アミン・サーダン校長は、「デリクでの試みはわずか2か月に過ぎないが、シリアのクルド人支配下地域では、以前からこのような試みがなされていた。」と説明してくれた。1年半前にシリアで民衆蜂起が起きた途端にクルド語学校を始めたところもあるという。

「私たちは長年にわたって英語とトルコ語を教えてきました。この機を捉えて、クルド語の授業とはじめ我々民族の歴史、詩、文化を是非とも教えていきたいと考えています。」と著名な作家で詩人でもあるサーダン校長は語った。

学校が殺到する入学申請に対応できるよう、自宅の裏部屋2室を教室として無料で提供することにしたモハメッド・サディク氏は、「クルド民族の大義のために多くの人々が命を落としてきました。私の貢献なんてそれに比べたら何でもありませんよ。」と語った。

今年7月、イラクのアルビル(クルド半自治地域政府の拠点)でシリアの主要クルド人政党間の協定が結ばれ、地域の教育行政は在シリアクルド人の支配的連合である「民主統一党」(PYD)によってなされることになった。現在、教育委員会は大急ぎで数学や歴史などの科目をカリキュラムに追加する作業を進めている。

1963年にバース党が政権を掌握すると、シリア在住のクルド人(情報源により200万人~400万人と見られている)には、アラブ同化政策が強要され、教育現場におけるクルド語教育は禁止された。しかし今日「バダルハン・アカデミー」では600人の生徒がクルド語を学んでいる。クルド語は、インド・ヨーロッパ語族イラン語派に属し、5つの変形型が存在し、そのうち2つ(クルマンジーとソラニー)が広範囲で話されている。クルマンジーは、イラク・クルディスタン北部、カフカース地域、トルコ東部、シリアで話され、ラテン文字で表記される。話者人口は1500万人程度といわれている。一方ソラニーは、イラク・クルディスタンの多くの地域とイラン西部において話され、アラビア語で表記される。話者人口は600万人であるとみられている。クルマンジーとソラニーにはそれぞれ標準語があるが、未だにクルド民族4000万人全体に共通の言語やアルファベットは存在しない。

マナルは、看護師のファティマと同じ机を使っている。ファティマはかつて、教室でクルド語を使ったというだけの理由で1週間の停学処分に処せられた苦い経験を思いだしながら、「(こうしてクルド語を学べるのは)間違いなく重要なことです。とりわけ将来を担う世代にとって極めて重要です。」と語った。

「(シリア当局の目を逃れて)私たちは内緒で、時には(クルド人の)先生ともクルド語で話したものでした。」

今日ファティマは、コピーした文法書と参照したり、ホシャンクのような若いボランティア教師の助けを借りて、クルマンジで正しく書けるよう特訓の日々を送っている。

「(クルド語を教える)教師が必要だと聞いて、迷わずボランティアを申し出ました。私はインターネットや自宅に隠していた本を使って独学でクルド語を学びましたが、クルド語を必要としている同胞が僕のように苦労しなくても済むように、力を貸したいと思います。」とホシャンクは語った。

この地域のクルド人は、第一次世界大戦中の1916年に、当時の大英帝国とフランスが秘密協定で(当時両国の敵国であったオスマントルコ領を)バグダッド鉄道沿いに分割する国境線を確定したことから、今日のトルコとシリアに家族・親戚が離散して生きていくこととなった。終戦後、連合国とオスマントルコが結んだセーブル条約(1920年)で、独立に向けた自治の実施が規定されたが、実施されずじまいに終わった。

インターネット時代が到来すると、シリア政府は、主なソーシャル・ネットワークの使用や当局が危険視したウェブサイトの活用を市民に厳しく禁じてきた。こうした当局による締めつけは、内戦勃発後は不安定なシリア通信事情も相まってさらに悪化の一途をたどった。

しかし、シリアのクルド人は、国境の外にあるトルコでほぼ自由にインターネットにアクセスすることができるため、その利益を享受することができたのである。この点は(国内のクルド人勢力を弾圧してきた)トルコ政府にとっては、まったく意図するものではなかったが、結果的にトルコの通信インフラがクルド人の団結を強める上で重要な貢献を果たすこととなった。(原文へ

翻訳=IPS Japan

 

 

 

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