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INPS JAPAN   IDN-InDepthNews - UN INSIDER

|モロッコ|スラム街から「セメント-ゲットー」に

【カサブランカIPS=アブデラヒム・エル・オウアリ】

 

過去に起こった悲劇(1981年のパンを求めるスラムのデモ群集に警官・軍隊が発砲、多くを虐殺した事件、2003年5月にカサブランカの金融中心街で起こったスラム出身者による自爆テロ)が、モロッコのスラムの抱える諸問題を浮き彫りにしているが、「モロッコ政府のスラム対策は依然として不十分なものである」と専門家は語る。貧困層の世帯を、従来のスラムから新しいが粗末な作りの建物に集団移転させることが、必ずしも貧民層の中で醸成されてきた緊張関係を解消することにはならないだろう。

 
2003年5月16日、オサマ・ビン・ラディンのアルカイダネットワークとの繋がりがあると見られるテロリストがカサブランカの金融街の中心で引き起こした自爆テロは、40名以上の死者と100名以上の重軽傷者を出した。それから約半年後、ドリス・ジェットウ首相は、「モロッコ政府は毎年100,000戸を目標に、国内の低所得者層を対象とした住宅を建設する」意向であることを発表した。

 
それと同時に、トウフィク・ヒジラ住宅・都市化担当相(Minister-delegate)は、「モロッコ政府は、各市内のスラム地区(=社会不安の温床、特にカサブランカのスラム街は自爆テロリストの供給拠点と見なされている)を撲滅する実行可能な開発計画を有する都市に対して財政措置を優遇する」と発表した。

「5.16自爆テロ事件」は、モロッコ政府に国内のスラム地域に居住する約150万人の貧困層の存在を再認識させることとなったようだ。しかし残念ながらそのことが必ずしもスラム問題の解決に向けた具体的な行動計画へと繋がっていくことはなかった。政府当局は、スラム住民を物理的に不安定で危険な掘立小屋からアパートに移転させたのみで、これらの「元スラム住民」をモロッコ社会に統合したり、移転先地域全体の社会開発のプロセスをこれによって生み出すという努力はなされなかった。

カサブランカ建築家組合前理事長で国際建築家組合(IUA:100カ国以上の職能団体を含む国際建築家組織)科学委員のAzdine Nekmoucheは、政府のスラム撲滅計画について「これには深刻な問題がある」つまり「これでは住民はスラムからセメントで固められた街に移されているだけだ」と語った。

また、「スラム住民のために建設された建物は『縦に聳え立つゲットー』である」とNekmouche は言う。「なぜならこの計画には他の住人との接点を持たせようというUrban Mixtureの概念がないからだ。同等の社会経済レベルに属する市民たち(この場合、スラムの貧困層)を特定の小さな区画に押し込めることで、我々は新たなゲットーを作り出しているにすぎない」「つまり、(ゲットーでは)その地区の住民にとって良き目標となり、他の住民を(将来に向かって)動機付けるような人物がいないということです」とNekmouche 語った。

カサブランカのIdriss el Harti大通り沿いを見渡せば、近代的なビルが並んでいるが、実はその背後に22年前に建てられた低所得者用のアパート群が隠れていることは誰も想像できないだろう。

モウレイ・ラシッド(Moulay Rachid)地区は元ベン・ムシク(Ben M'sik)スラム街の住人のために建設されたところである。ここにスラム住民たちが移されたのは1984年の冬であった。しかし、彼らの新しい「家」は当時まだ完成しておらず、9平方メートルの一部屋に「台所」を兼ねた洗面台、壁と床はコンクリートむき出しの状態で、各入居者が残りの仕上げ作業をすることとなっていた。

モハメッドKが家族と共にラシッド地区に移り住んだのは15歳の時であった。あれから21年経過したが、彼は当時学校に通学するために毎日10キロ以上の道程を歩かなければならなかったこと、ラシッド地区では各ブロックが鎖のフェンスで囲まれていたのを今でも覚えている。「当時ラシッド地区にはバス亭さえありませんでした」とモハメッドは語った。

「私は当時、私達(元Ben M'sikスラム住民)は人間として扱われていないと感じていました。後に当局がフェンスの撤去を行ったとき、私の友人が『どうやら当局は、我々がようやく飼いならされたと、得心がいったようだ』とコメントしたのですよ」とモハメッドは語った。

ラッシド地区への移転より3年遡る1981年6月20日、数十人のモロッコ軍兵士と警察部隊がBen M'sikスラムに侵入し、バンを要求するスラム住民のデモ鎮圧にとりかかった。住民のデモは当初基本生活物資の価格高騰に対する抗議であったが、次第にサボタージュや流血の衝突へとカサブランカで最も貧しい地区を舞台に事態は悪化していった。

軍隊・警察が住民に対し実弾を発砲し徹底的な弾圧で臨んだことから、数千件にのぼる残虐行為が報告された。そして犠牲者達は集団墓地に埋葬された。この事件の後、モロッコ政府は、Ben M'sikを含む全国のスラム「=緊張地帯:tension zones」の問題と向き合わざるをえなくなった。

1981年の「Ben M'sikスラム暴動」は、モロッコ政府にとって、2003年の「5.16自爆テロ事件」時のように、本来であれば、スラム問題が差し迫った未解決の問題であるということを再認識する機会となるべきであった。


カサブランカは、モロッコ王国最大の都市で経済の中心であるとともに、国内のスラムの約半分が集中している場所である。モロッコ政府当局は、Ben M'sikスラムの大半を撤去した後、(元スラム住民の移転先である)ラシッド地区がもう一つの巨大スラム街であるアルマシラと近いことに気づいた。

アルマシラスラムは、モロッコ政府当局が1976年(「Ben M'sikスラム暴動」に先立つ5年前)にカサブランカ-ラバット有料高速道を建設するために数百人のBen M'sikスラム住民を移転させた際に生まれたスラム街である。それまでBen M'sikスラムで社会的な緊張を引き起こすような問題が引き起こされたことはなかったので、スラム住民の移転はスラムからスラムへの単純な移転として処理され、移転住民たちにはアパートが提供されることもなく、(「5.16自爆テロ事件」後のように)移転先にアパートが建設されることもなかった。

「5.16自爆テロ事件」で、カサブランカの金融中心街を爆破した自爆テロリストはこのアルマシラスラム地区から現れた。

「人口過密で失業率・非識字率が高く、住民が物価高騰に喘いでいるラシッド・アルマシラ両地区の実情は、アルカイダと繋がるような過激派にとって、(自爆テロリストを含む支持者を獲得する)格好の舞台と映っている」と専門家は指摘する。

「ラシッド・アルマシラ両地区は、モロッコ裁判所に送られてくる犯罪者の主な供給源になっている」。カサブランカ法曹界のメンバーであるモハメッド・チェムジー弁護士はIPSの取材に応えて語った。「なぜなら、いっこうに改善しない生活条件への絶望から、若者たちは犯罪に走るのです」とチェムジー弁護士は説明した。「そして、この自暴自棄が、過激派のリクルーターの標的になるのです」

モロッコ政府によるラシッド地区を市に昇格させようとする10年以上前からの努力にも関わらず、同地区内の社会・文化関連インフラの状況は改善されていない。それどころか、ラシッド地区の指導者達は自らの権力を乱用しているように思える。

住民達の証言によると、ラシッド地区のスタジアムは今や完全に放棄され、犯罪者にとって便利な隠れ家と化しており、一方、テニスクラブ「ラ・ラケット・ドール」はある種の市庁舎であるかのように違法に改装され、地区代表の親族で地区議会議員が地元行政を食い物にしている、という。

「ラシッド地区の市政開発など、単なる幻想に過ぎない」とチェムジー弁護士は語った。


また、ラシッド地区には広大な工業団地があるが、「それはどちらかというと働く女性や少女達が青春を埋もれさせる墓場のような所だ」とチェムジー弁護士は言う。「彼女たちは若く、やる気一杯で工業団地に入るが、結局は背中の曲がった老婆のようになって出てくることになる」

この工業団地も、スペイン、アルジェリア、中国からの不当に安価な商品の流入に厳しい競争を強いられている上、税金の値上げ、政府の不十分な支援が重なり、多くが倒産や閉鎖の危機に直面している。

「ラシッド・アルマシラ両地区の住民には開発の恩恵に預かる十分な機会が与えられていない。そこで民間セクターによるイニシャティブに大いに期待したいところだが、その選択をした場合でも複雑な問題が山積している」

逆説的に言えば「ラシッド地区に民間イニシャティブを導入しようとする試みは、奥行きが知られていない未知の洞窟を探検するようなものです。まず最初に直面する問題は複雑な行政手続でしょう」と、チェムジー弁護士はIPSの取材に語った。

「新たな店を1軒開設するための単純な許可を取得するだけでも、長い官僚的な手続きを経なければならないのが実情です。すなわち、あなたが把握できるのは手続きを開始した日のみで、いつ手続きが終わるかは神のみが知るというありさまです」

「さらに民間イニシャティブへの障壁となるものは、ラシッド地区に横行する不正・腐敗の構造です」「将来、ラシッド地区に投資しようとする者は、直ちに腐敗した地区役人や関係機関の気まぐれに奔走されることになるでしょう」と、チェムジー弁護士は語った。

モロッコ政府のスラム根絶政策は、1981年の「Ben M'sikスラム暴動」や2003年の「5.16自爆テロ事件」への対応の際に見られたように、殆どが散発的かつ対処療法的なものに終始している。

にもかかわらず、モロッコ国内の一部の市は2007年に、そしてその他の諸都市は2010年にそれぞれ「スラムのない街」を宣言することを予定している。しかし、専門家の間では、(単にスラム街を地図上より根絶することよりも)むしろ「ゲットーをなくす:Ghetto-free」街を目指した施策の方がモロッコにとって有益ではないかという点で、一致を見ているようだ。(
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翻訳=IPS Japan浅霧勝浩