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INPS JAPAN   IDN-InDepthNews - UN INSIDER

収入への道は今、東へ延びる

【ベオグラードIPS=ベスナ・ペリッチ・ジモニッチ

バルカン半島の数千人にのぼる男たちはより良い収入を求めて東に向かっている。その内の多くは、トラックを運転してイラクの米軍基地に食糧を運搬する仕事に従事している。バグダッドはベオグラード(旧ユーゴスラビアの首都)から2400キロ離れている。また、イラクの米軍基地に留まって働く者も少なくない(基地ではマケドニア人やバルカン半島出身の労働者が各種サービスを提供している)。

イラク、ロシア、中東各地の新しい仕事、すなわちそれらの地域に食料を運搬する仕事から得られる月収は最高2000ドルであり、旧ユーゴスラビア地域(現在のスロベニア、セルビア・モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、マケドニア)における平均月収が200ドルに満たないことを考えれば魅力的な収入である。

 
トラック運転手たちは、フロントガラスに道中の安全を保障する「新たなパスポート」旧ユーゴスラビア大統領シップ・ブロズ・チトー(Josip Broz Tito、1892年~1980年)の写真を掲げて、目的地に向かって旅立っていく。チトー大統領が逝去したのは25年も前のことだが、彼が非同盟運動の礎を築いた中心人物の1人(※1960年、チトーは、エジプトのナセル、インドのネルー、ガーナのエンクルマ、インドネシアのスカルノと第1回非同盟会合を開催した:IPSJ)であることから、彼の写真は今でも(中東地域で)広く好感を持って受け止められている。
 
「イラク人達は今でも彼(チトー)を覚えている」とトラックドライバーのミロラッド・ミレティッチ(58歳)はIPSに語った。「チトーの写真は幸運をもたらすお守りのようなもので、この写真をフロントガラスに掲げると国境を問題なく通過できる」
 
彼ら長距離運転手には幸運あるいはチトーの写真が伝える「親善」のイメージが必要である。「(チトーの写真を掲げていることで)不安が解消され、知らない土地で助けが必要なときでも物事がスムースに運ぶ」とミレティッチは語った。「(イラクの)チクリットとモスル近郊でクロアチア人ドライバーを巻き込む事件が起こってから、運転手は皆、不安で一杯なんだ」 
 
2人のクロアチア人運転手イヴォ・パヴチェヴィッチとダリボル・ブラゾヴィッチは3週間前、輸送車の車列が何者かに襲撃された際に殺された。これに対して、クロアチア外務省は危険地域への輸送の仕事を取らないよう警告を発したが、イラク、アフガニスタンに向かうクロアチア人トラック運転手の数は増加し続けているのが現状である。

 
この傾向は、中東方面や長大なシベリヤ、モスクワ近郊での事件に直面しながらもロシアへの物資の運搬に従事するセルビア人の場合にも当てはまる。
 
最近モスクワ郊外で発生したそのような事件を紹介すると、中部セルビアの街Kragujevacから出稼ぎにきていたヒリスティヴォイェ・ルーキッチ(58歳)はモスクワ郊外で電子部品を運搬中、無理やり車から引きずり出された。ルーキッチはこの経験を「不愉快な冒険」を振返っているが、彼はその後5日間、小さな家で身を隠さなければならなかった。「ロシアには2度と行かない」とルーキッチは言う。
 
しかしほとんどのバルカン半島出身の運転手は危険を覚悟で東への運搬業務に従事している。今日、ギリシャ、トルコのハイウェイ沿いにはどこでも、ヨルダン、イラク、アフガニスタンと行き交うボスニア人、セルビア人、クロアチア人、マケドニア人運転手の姿を見つけることができる。「この沿線はあたかも動く『小さなユーゴスラビア』ですよ」とミレティッチは言う。

彼は今までに4回イラク入りしており、現在5回目となるイラクの米軍基地への物資運搬の準備を進めている。「前回の輸送隊にはクロアチア人、ボスニア人、それとセルビア人も何人かいました」「(イラクでは)マケドニア人の出稼ぎ労働者が私たちを泊めてくれたのですよ」と、ミレティッチは言う。

1990年代の内戦はこれらの人々を引き裂いた。「私たちは決して当時の内戦のことは口にしません」とミレティッチは言う。「私たちの(今直面している戦争)は生き残りをかけたものですから、すなわち、日々を生きていくためのバンを得ることの方が、政治よりも重要な問題なのです」

「運転手達の収入を求めた東への旅は、旧ユーゴスラビア地域の人々の人口移動の方向性が東に傾きつつる現状を反映したもので、(従来西へ向かっていた)伝統的な人口動態の方向が『劇的に変化した』ものです」とセルビア労働・雇用・社会性政策省(Ministry for work, employment and social policy)のイヴァナ・チブロヴィッチはIPSに語った。

1960年代、少なくとも100万人の労働者がバルカン半島からドイツ、フランス、スイスに出稼ぎに出かけて行った。後に、より職能レベルの高い比較的小数の人々が西側に移住していった。そして90年代の内戦時代には約40万のセルビア人青年達が米国、カナダ、オーストラリアへと移住して行った。その結果、保守的に見積もっても海外在住のセルビア人は約300万人にのぼる。セルビアの人口は約750万人である。

ボスニア・ヘルツェゴビナの場合、政府の推計によると、内戦中に国を離れたボスニア人は約100万人にのぼり、彼らは戦後もそのまま海外に留まる傾向にある。この在外ボスニア人は全ボスニア人人口の4分の1を占める。

「(内戦中海外移住せず)旧ユーゴスラビアに留まった人々にとって、経済状況はひどいものだった」と社会学者のスレコ・ミハロヴィッチはIPSに語った。「1995年に平和が回復すると、それまで可能であった海外移住の様々な道は閉ざされてしまった」。そして(今まで移民を受入れてきた)西ヨーロッパ諸国の労働市場が収縮し「今や人々は受入れてくれるところはどこへでも仕事を求めて向かわざるをえない状況です」と彼は語った。

この現状を象徴しているのが、中東諸国への長距離トラック輸送車列の出発点であるクロアチアセルビア国境の街バトロビッチの光景である。「収入さえ良ければ、私は行きます」とミレティッチは言った。(原文へ

翻訳=IPS Japan浅霧勝浩