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│アルゼンチン│独裁者ビデラ、獄死す

【ブエノスアイレスIPS=マルセラ・ヴァレンテ】

 

37年前に軍事クーデターを引き起こしアルゼンチン史上最も凄惨な軍事独裁体制を敷いたホルヘ・ラファエル・ビデラ元陸軍総司令官が、5月17日、連邦刑務所で老衰のため死去した。87才だった。

 

ビデラは、ブエノスアイレス州東部のマルコス・パス市にある連邦刑務所の一角で、軍事独裁政権時代(1976年~83年)の人権侵害事件で有罪判決を受けた他の服役囚とともに複数の懲役刑(終身刑+15年)に服していた。

 

公判中ビデラ被告は「私は誰も殺していない。」と証言したが、人道に対する罪として起訴された全ての件について、事件の黒幕として有罪判決が下された。事実、ビデラ被告自身、ジャーナリストのマリア・セオアネとヴィセンテ・ムレイロが出版した著書「独裁者」の中で、著者のインタビューに答えて「(軍事政権時代)支配統制は行き届いており、私自身は全てを超絶した存在だった。」と述べている。

 

人権擁護団体や軍事独裁政権の被害者・遺族らは、一般刑務所におけるビデラ元総司令官の死はひとつの象徴的な出来事だとしつつも、真相解明のプロセスの中の一環に過ぎないと考えている。

 

アムネスティ・インターナショナル・アルゼンチン支部のマリエラ・ベルスキ代表は、アルゼンチンが中南米諸国や途上国世界全体にとって、軍事独裁時代の真相究明と法に基づく裁きを追求する先進的なモデルとなっている点を強調したうえで、「ビデラは軍事独裁政権が犯した最も残虐かつ凄惨な行き過ぎの首謀者として記憶されるでしょう。しかしここで最も重要なことは、裁判が行われてビデラが有罪になり、彼が獄死したという事実です。」と語った。

 

さらにベルスキ氏は、「独裁者の死によって「[人権侵害究明の]プロセスを終わらせられてはなりません。アルゼンチンが先導しているこのプロセスは(同じく過去に軍事独裁政治を経験した)他の中南米諸国においても引き継がれていくべきものなのです。」と警告した。

 

南米南部共同市場(メルコスール)人権公共政策研究所のビクター・アブラモヴィッチ事務総長は、「ビデラの獄死は、非常に重要かつ象徴的なできごとです。」と指摘したうえで、「10年前だったらこのような展開は想像さえできなかったでしょう。今日、法律や進捗ペースはそれぞれ異なるものの、(軍事独裁時代の)真相を究明しようという動きが、この国の他にもチリ、ブラジル、ペルー、コロンビア、ウルグアイ、そして(元独裁者ホセ・エフライン)リオス・モントが(5月10日に)懲役80年の判決を受けたグアテマラに広がりを見せており、様々な興味深い議論が噴出してきています。」と語った。

 

また米州人権委員会の前副理事でもあるアブラモヴィッチ氏は、「元独裁者が一般刑務所で獄死したという事実は、全ての人が法の前では平等であるという原則を再確認する出来事となりました。」と付加えた。

 

アルゼンチンでは、1983年以来、軍事独裁期の人権侵害により422人(その大半が軍人)が裁判にかけられ、378人が有罪、44人が無罪となっている。また軍の秘密施設で行われた拷問等に関する調査が進展したおかげで、この2年間は裁判件数が急速に増えている。2012年には24件の裁判が行われ、134人が有罪、17人が無罪となった。

 

アルゼンチンで軍事独裁政権の責任追及を行っている市民グループ「Grandmothers of the Plaza de Mayo(マヨ広場のおばあさん)」は、これまでに、政治犯とされた両親とともに拉致されたり、身柄拘束先で母親が出産した子供たちを100人以上特定している。そしてこのような背景を有する人々の中には、マルティン・フラスネダ人権担当大臣のような国会議員をはじめ、市議会議員、政府高官など公な職に就いているものも少なくない。

 

1976年3月24日、当時陸軍総司令官だったビデラは、当時の大統領マリア・エステラ・マルティネス・デ・ペロン(イサベラ・ペロン)をその座から失脚させた軍事クーデターで政権を掌握し、自身を含む陸海空3軍の最高司令官で構成される軍事評議会を設置、5日後の29日に大統領に就任した。

 

ビデラの独裁時代(1976年から大統領を退任した81年まで)に、後に「汚い戦争」とよばれる左翼ゲリラ掃討を名目にした苛烈な弾圧政策が実行され、多くの民衆が拉致、拷問、殺害などの憂き目にあった。政府の記録では約1万1000人が強制失踪(拉致)されたとされているが、人権擁護団体は犠牲者の合計を3万人と推計している。

 

軍事独裁政権は[ビデラ退陣後も英国とのフォークランド戦争の敗北の責任をとってレオポルド・ガルティエリ大統領が退陣した]83年まで続いたが、その後成立したラウル・アルフォンシン政権の下で、軍事独裁政権における関係者に対する裁判が始まった。ビデラは1985年に、66件の殺人、306件の誘拐、93件の拷問、26件の窃盗の罪により、終身刑に処せられた。

 

ビデラは他の軍関係者とともにその後5年間に亘って軍刑務所に収監されたが、特別待遇を受けたため、メディアや人権擁護団体の批判に晒された。そして1990年になるとカルロス・メネム大統領(1989年~99年)の恩赦により解放された。

 

しかし1998年になると、ビデラは、新たに政治犯の子どもを誘拐した容疑(それまでこの容疑で有罪が確定しておらず、従って、恩赦の対象にならなかった)で再逮捕された。

 

ビデラをはじめとした人権侵害に関わったとされる人々に対する公判が再び本格化したのは、大統領による恩赦と人権侵害に対する訴追免責がアルゼンチン最高裁判所で憲法違反と判断された2005年以降のことである。2010年には、政権担当当時にコルドバ州で行ったとされる人道に対する犯罪容疑(31人の左翼政党員の殺害、6人の誘拐、拷問)で終身刑の判決を受け、さらに2012年には、左翼系活動家の子どもを強制的に軍人の養子にしていた事件に関与していた罪で懲役50年の刑に処された。

 

ビデラはこの他にも、アルゼンチン中央部のサンタフェ州及び北部トゥクマン州で軍事独裁政権が行ったとされる人道に対する犯罪に関与したとして起訴されていた。

 

ビデラは、一連の公判において、「民間法定に自分を裁く権限はなく、自分はキンチネル政権による政治的復讐劇の標的にされた「政治犯」だと主張した。ビデラが生前最後に出廷した公判は、5月14日に開かれた「コンドル作戦」(1970年代と80年代に当時アルゼンチン、ボリビア、ブラジル、チリ、パラグアイ、ウルグアイを支配した軍事独裁政権が連携して、左翼活動家の捜索・捕縛・交換・処刑を行った軍事作戦)への関与について審議されたものだったが、この際ビデラの顔色は悪く、歩行もままならず、声も震えていた。

 

にもかかわらず、ビデラは公の場で自らしてきたことについて悔やむ姿勢を見せることはなかった。それどころか、この際の公判でも自分が無罪であるとの従来の主張を繰り返し、犯罪は命令を受けた部下がやったことだと主張した。

 

またビデラは、3月のスペイン雑誌「Cambio」によるインタビューが最後のメディア取材となったが、その際、アルゼンチン国軍の若い兵士らに向けて「共和国の体制を守るために」クリスティーナ・フェルナンデス・デ・キルチネル現政権打倒に立ち上がるよう檄を飛ばしている。(原文へ

 

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