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|視点|世界市民教育への抜本的なアプローチ(クィーンズ大学教授)

Wayne Hudson【ブリスベンIPS=ウェイン・ハドソン】

世界市民教育は、このところしかるべき認知を得てきているが、それを論じる文献の多くが、「平和と正義を促進する教育」「持続可能性」「環境への配慮」「多宗教」「多文化理解」といった旧来からの検討課題を別の呼び名で論じたものである。

また別の文献は、子どもたちが、世界史やグローバル倫理、グローバル法など特定のグローバルな知識を学ぶことを提唱している。こうしたアプローチは「世界市民」というものに含まれる(考え方における)革命性を把握し損ねているというのが私の意見である。

これらは、時代の水準に達しておらず、必要な変化をもたらすほど抜本的な教育へのアプローチを促進しえない。また、世界市民教育の支持者の中には、別の名の下で政治的・社会的活動を促進しようとする傾向があることも、問題である。

そして最後に、世界市民教育には、ヨーロッパ的な「啓蒙」の観念に過度に依存した西欧の用語として紹介される傾向にあるという大きな問題がある。私は、より抜本的で、教育上の実践に関する新たな概念を含んだ、世界市民教育に対するアプローチを提唱したい。

もちろん私は、西欧文明のこれまでの成果や、欧州啓蒙運動の豊かな伝統を無視した世界市民教育を論じようとしているのではない。しかし同時に、世界市民教育は、西欧の啓蒙イデオロギーにおける教育ではありえないのである。

世界市民教育はイスラムの実質的な主張を無視することはできない。また、ロシア正教がある種の私的な選択肢であるとか、ロシア連邦が世俗的な国民国家であるとか装うわけにもいかない。そして、世界市民教育が現場で限定的な影響力しか持たないような教育的空想主義の新たな事例となることを避けようとするのならば、世界中に見られる、政治的、文化的、倫理的な現実の多様性と関わりを持たざるを得ない。

世界市民教育は、単に西欧的なものではありえず、都会のエリートの子どもたちのみならず、貧困国や農村環境に生きる子どもたちとも関わるものでなくてはならない。世界市民教育として実施されている現在の形態の多くは、そうした子どもたちのニーズに対処しているようには思えない。

西欧的イデオロギーと夢想の域を超える世界市民教育を実現するには、2つの大きな跳躍を成し遂げねばならないというのが私の意見である。

一つは、ポスト世俗主義的な跳躍を成し、公的生活と私的生活の双方における非日常的な活動の認知と穏健な世俗性を両立させることが必要だ。これはつまり、「公共の広場」あるいは「公共圏」に関するアメリカ的なイデオロギーの否認を意味する。

それは、実際の世界の現実とふたたびつながり、様々な精神的観点を、宗教的市民権のレベルにおいて、人権のレベルにおいて、そして国家の役割のレベルにおいて、真剣に受け止める世界市民教育のモデルを含む。

こうした諸問題について、西欧的啓蒙主義に基づく主張を繰り返すだけの偽善的な宣言は、イスラム世界やロシアにおいては実際には失敗に終わるだろう。欧米社会に育ったイスラム系少数市民に対してすら、受けるところがないかもしれない。また長期的には、インドミャンマー、中国といったアジア地域の多くの国々においても、こうした宣言は実践されることがないだろう。

このように、世界市民は、世界市民教育に関する多くの論者が現在想定しているよりももっとグローバルなものでなければならない。現在よりも、文化的、宗教的、文明的差異を真剣に取り扱わねばならない。

ここで問題になっているのは特殊主義、あるいは非合理な形態の文化的相対主義ではなく、現実にある異質性や実際の世界の文脈を問題とし、且つカント的な道徳哲学、あるいは英米的な政治哲学に依拠しないようなアプローチである。

「グローバル」とは、英米的であるとか、単にヨーロッパ的であることを意味しない。グローバルなアプローチとは、差異を尊重すると同時にある程度までは説明しなくてはならない。つまり、旧来から提供されてきた個別の伝統よりも強力な概念が必要だということだ。このことが二つ目の跳躍へとつながることになる。

私の見方では、世界市民教育はまた、新たな概念に向けた跳躍を果たさねばならない。歴史的な特殊性を考慮に入れつつも、異なる文化や国民国家を超えた性質を創出しうるような概念である。

新たなグローバルな概念は、現在の教育機関で提案されているようなものではなく、教育の発展におけるほとんどの思考に刺激を与えるようなものではない。これは部分的には、この種の思考法が、教育者よりも数学者・物理学者・哲学者の間に一般的にみられるものであるという事実からきている。

しかし、教育実践においてそうした概念を作り出し模範として見せていくことはそれほど難しいことではないのかもしれない。実際、新たな概念を哲学的あるいは理論的な用語で展開するよりも、教育実践においてそれを確立する方が容易であろうと思うのだ。

私のここでの立場は、本質的に代案を提示しようとするものであり、明らかにかなりの例証を必要とするものである。私の推奨するアプローチは、教育における多くの支配的な戦略とは異なっている。旧来のそれらはしばしば、あらかじめ存在する教育上の概念や戦略をカリキュラムが実践するものだと想定されている。

世界市民教育に対する私のアプローチは、教育法と学習におけるきわめて異なった概念を伴うものである。すなわちそれは、逆説的にも、教育者が通常は好まないようなタイプの強力な認知主義と、彼らが好んではいるが通常は実践に移されることはないようなタイプの強力なプラグマティズム(実用主義)の両方とつながりをもったものなのである。

Charles Sanders Peirce/ Wikimedia Commonsそれはとりわけ、ジョン・デューイウィリアム・ジェイムズリチャード・ローティといったプラグマティズムの主唱者よりも、アメリカの哲学者で数学者であるチャールズ・サンダース・パースのプラグマティズムとつながりを持ったものである。

私の主張は、哲学と実践に対するこうした通常でないアプローチは、世界市民教育にとっての利益をもたらすという点にある。このアプローチを基盤とした教育法には、新しい技術を用いた実践に向いているという利点がある。

またそれは、世界中の地域社会において、より安価で、実践的で、容易に実施することが可能である。もちろん、そうした革新的なアプローチは、少なくとも、現代哲学や数学、認知科学におけるアプローチのための基礎が十分理解されるまでは、問題含みのものであるかもしれない。しかし、それこそが私が発展させようと思っているアプローチである。それは、現在の論争に真の貢献を成しうるアプローチであると考えている。(原文へ

翻訳=IPS Japan

本記事の中で紹介されている見解は著者個人のものであり、インター・プレス・サービスの編集方針を反映したものではない。

※ウェイン・ハドソンは、クィーンズ大学、チャールズ・スチュアート大学、タスマニア大学(豪州)の教授。

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