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INPS JAPAN   IDN-InDepthNews - UN INSIDER

原爆投下を生き延びて(和田征子日本原水爆被害者団体協議会事務次長)

Masako Wada delivering her speech at the Vatican Conference on Nov 11, 2017 Photo credit: Katsuhiro Asagiri | IDN-INPS ローマ教皇庁が主催した「核兵器なき世界と統合的な軍縮」への展望を巡る初の国際シンポジウム(11月10日-11日)における被爆者の証言(映像はこちらへ)。

【バチカンIDN-INPS=和田征子】

私は生後22か月の時、長崎で被爆した和田征子と申します。爆心地から2.9kmに自宅で被爆しましたが、山に囲まれた長崎の地形のおかげで生き延びることができました。

 7月7日に核兵器を禁止しその全面廃絶に至る法的拘束力を持つ条約が採択されました。広島、長崎の原爆投下後、被爆の報道さえも違法とされたアメリカの占領下の日本で、被爆者は占領軍からも、日本政府からも何の救援もなく放置されました。1954年のビキニ水爆実験をきっかけに起こった原水爆禁止の国民的運動の中で、日本被団協を結成し、被爆者は行動と決意によって61年間、核兵器の廃絶を呼びかけてまいりました。「再び被爆者をつくるな」と訴え続けてきた被爆者にとって、今回の禁止条約採択は大きな喜びです。

Vatican Conference Photo Credit: Katsuhiro Asagiri | IDN-INPS名前にかかわらず、死者数としてだけ記録に残る多くの方々、運動に関わってこられた多くの先達、国内外の支援者の方々、条約の採択に貢献しノーベル平和賞を受賞したICANの方々と、共に喜びを分かち合いたいと思います。そして何よりも、バチカン政府が、核兵器禁止・廃絶を目標とする国際会議で議論をリードし、すでに条約に署名し、批准をしてくださったことに、深く感謝いたします。

「核兵器の使用の被害者の受け入れがたい苦しみ」に心を寄せた条約の前文には、一発の核兵器がもたらした非人道性が明記されています。あの日、理由もわからず瞬時に命を奪われた方々。1945年の12月までの死者数は広島で14万人、長崎で7万人ですが±1万人とされ、その90%は老人、子どもを含む非戦闘員でした。そしてかろうじて生き長らえてきた被爆者の苦しみ、それは深く、今なお続くものです。愛する者の死、生き残ったという罪悪感、世間の偏見、差別、あきらめた多くの夢。それは人種、国籍、年齢、性別を問わず、きのこ雲の下にいた者に、被爆者として死に、また生きることを強いるものでした。

生後22か月で被爆した私に当時の記憶は全くありません。他の先輩の被爆者の方々が、あの日、あの時代に経験された筆舌に尽くしがたい光景をお話しすることはできません。しかし私は母と祖父と共にそこにいました。母が繰り返し語ったことを少しお話します。

Nagasaki, Japan, before and after the atomic bombing of August 9, 1945./ Public Domain8月9日、空襲警報は解除になった昼前、母は昼食の準備をしていました。私は玄関の土間で一人遊んでいたそうです。11時2分。大きな爆発音。爆心地から2.9km離れた家の中は、窓ガラス、障子、格子、土壁などがすべて粉々になり、30センチ以上の泥が積もりました。外はオレンジの煙が漂い、向かい側の家も見えなかったそうです。市内を取り囲んでいた緑の山々は、茶色の山となっていました。

母はその山道に爆心地から山越えをして火を逃れ、降りてくる蟻の行列のような人々を見ました。チョコレート色に焼け、着けている衣類もほとんどなく、髪の毛は血で固まり、角のようになっている人たちの列でした。

家の隣の空き地で、ごみ車に集められた遺体の火葬が毎日続きました。母は人形のように焼かれる遺体の数とその臭いにさえも、誰もが無感覚になったと話していました。人間の尊厳とはなんでしょうか。人はそのように扱われるために創られたのではありません。

母は治療の手伝いに行った臨時の救護所で、床一杯に収容されている人たちの、火傷や怪我のひどさに気絶してしまい、その後与えられた仕事は、傷口にわいたうじ虫を箒でかき集めることでした。その無数のうじ虫は親指大になっていました。

アメリカ軍は原爆投下と同時にB29から落下傘につけたラジオセンサーも落としました。原爆の威力、爆圧の強度、熱度などを測定する機器でした。その機器は、アメリカ軍にきのこ雲の下にいた一人一人の生活、その家族のこと、そして生命の尊さは伝えなかったのかと、母は話していました。

母は6年前89歳でなくなりました。心臓病、胃がん、肝臓がんの他、いろいろな病気を抱え28回の入退院を繰り返しました。生前、私が書いたものを読んだ母は甚だ不満の様子でした。体験した地獄の情景がこんな言葉では表現できないからでしょう。他の先輩の被爆者の方も同じように感じられるはずです。私には母の体験を話すとき、十分ではない自分の話にいつもためらいがあるのです。でも私たち少しでも若い被爆者が話さなければならないほど、72年が経ち被爆者は平均年齢が81歳と高齢化しています。

ICAN核兵器は、爆風、熱線、そして放射能の被害を無差別に、広範囲に、長年にわたってもたらす非人道的な兵器です。再び使われれば、同じ苦しみを世界中が負うことになります。被爆者はそのことを経験してきた者です。日本被団協結成の1956年、私たちは「世界への挨拶」で宣言しました。「私たちは自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意」でした。今日まで、決してあきらめることなく歩んできました。今、その宣言が実現する道筋が見えてきました。重い錆びついた扉がやっと少し開いて、一筋の光が入ってきました。

被爆者は被爆の実相を国内外で語ってきました。語ることによってあの時に引き戻される辛い努力を続けてきました。条約の前文に「公共の良心」という言葉が記されています。「公共の良心」は公共の利益、人類の利益、地球の利益の保持のために不可欠なものです。力は正義ではありません。核兵器は正義ではありません。廃絶しなければなりません。それをつくった人類の責任です。核兵器の廃絶のために、祈り、小さな努力を重ねることが、公共の良心であり、正義です。核保有国に、日本を含む同盟国に、禁止条約への署名と批准を訴え続けねばなりません。

Masako Wada delivering her speech at the Vatican Conference on Nov 11, 2017 Photo credit: Katsuhiro Asagiri | IDN-INPS 昨年4月、私たちは「被爆者が呼びかける核兵器廃絶のための国際署名」を開始しました。これまでに515万以上の署名を国連に提出しました。私たちは世界中に呼びかけて2020年までに数億の署名を、多くの公共の良心を集めようとしています。市民社会の声、一人一人の尊厳を持った人として、平和を実現するものとして、ご出席の皆さまにここバチカンから大きな声を上げていただきたいと切にお願い致します。(映像はこちらへ

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